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薬師丸ひろ子の若い頃!10代でデビュー、セーラー服と機関銃、映画一覧を徹底解説

 

薬師丸ひろ子さんは10代で映画デビューを果たします。

現在50代後半ですが、歌手・女優として、長く活躍を続けるのと当時に、驚くほどの美貌を保ち続けています。

薬師丸ひろ子さんの若い頃はどうだったのでしょうか?

この記事では、薬師丸ひろ子さんの、10代の若い頃を中心に、クラブのママによるデビューのきっかけ、大ヒットの「セーラー服と機関銃」、映画一覧について解説します。

本記事で紹介している、デビューのきっかけを読むと、薬師丸ひろ子さんの運命やきっかけが、本人の知らないところで動き始めるということが分かるでしょう。

 

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10代 薬師丸ひろ子の若い頃

薬師丸ひろ子さんは、10代の頃からその才能と魅力で人々を惹きつけました。

彼女が14歳の頃、映画「野性の証明」でデビューします。

この映画は、薬師丸ひろ子さんの才能を世に知らしめるきっかけとなりました。

それでは、簡単なプロフィールとデビューするきっかけについて解説します。

 

薬師丸ひろ子のプロフィール

  • 名前:薬師丸ひろ子
  • 本名:薬師丸博子(読み同じ)
  • 生年月日:1964年6月9日(59歳)
  • 出身地:東京都港区北青山
  • 学歴:東京都立八潮高等学校、玉川大学文学部英米文学科卒業
  • 身長:154.5cm
  • 血液型:A型
  • 職業:女優、歌手

デビューから薬師丸ひろ子さんは、角川映画の中心的な存在として絶大な人気を誇りました。

薬師丸ひろ子さんが世に出る始まりとなったのは、中学1年生の時に行われた角川映画第3弾「野生の証明」の長井親子役オーディションでの優勝でした。

1978年、薬師丸ひろ子さんは高倉健との共演で、映画デビューを果たします。

その後、1980年には相米慎二監督作品「翔んだカップル」で初主演を務め、注目を浴びました。

続いて、1981年には相米慎二監督の「セーラー服と機関銃」もヒットし、彼女の人気はさらに高まります。

その後も薬師丸ひろ子さんは数々の主演映画に出演し、ヒットを飛ばしてきました。

その後、「探偵物語」「里見八犬伝」「メインテーマ」「Wの悲劇」に出演。

彼女は、映画の主題歌も歌い、その歌声も大きな話題となりました。

特に1984年に公開された澤井信一郎監督作品「Wの悲劇」では、彼女の演技が高く評価され、第27回ブルーリボン賞の主演女優賞を受賞します。

そして、1985年には角川春樹事務所から独立することとなります。

 

薬師丸ひろ子のデビューのきっかけ

薬師丸ひろ子さんのデビューのきっかけは、銀座の田村順子ママがオーナーの高級クラブ「順子」で働くスタッフによって、偶然発見されたことから始まります。

1970年代半ばのことで、当時のオーナーである田村順子ママは、良い女の子がいたら、自分のお店にスカウトしたいと、いろいろなところでアンテナを張っていました。

そこへ、お店の運転手が飛び込むように、順子ママのところにやってきたのです。

青山の中学校の近くで「すごいかわいい子がいる」を見つけたと言いました。

順子ママはとても興味を抱いて、その運転手に写真を撮ってくるように頼みました。

その写真には、清楚な黒髪と印象的な瞳を持つ、圧倒的な存在感を放つ美少女が写っていました。

田村順子ママがオーナーのクラブ順子には、各界の大物もお客として、出入りしています。

その中で、角川春樹さんも、常連客の一人だったのです。

角川春樹さんといえば、1970年代、「犬神家の一族」や「人間の証明」といった角川映画を大ヒットさせていました。

当時、角川書店の社長であり、現在は角川春樹事務所代表です。

 

順子ママは、薬師丸ひろ子さんの写真を、誰かに見せたくて仕方なかったのです。

そこで、思わず、角川春樹さんにすごいかわいい子を見つけたといって、まだ中学生だった薬師丸ひろ子さんの写真を見せました。

その写真を見た角川春樹さんは、一瞬で表情を変えて、仕事モードの顔に変わったといいます。

ここは、かなり驚いたようです。

なぜなら、日ごろから美しい女優さんを見ている角川春樹さんが、その写真を見たとたんに、黙りこくってしまい、仕事の顔に変わったということなんです。

 

そこで、角川春樹さんは、順子ママに、その写真を貸してほしいと頼みました。

 

銀座の田村順子さんについては別のページで解説していますので、会わせてお読みください。

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薬師丸ひろ子のデビュー

1977年に映画「野生の証明」のオーディションで、1200名の応募者が集まった中、優勝を果たします。

薬師丸ひろ子さんが、まだ13歳の頃です。

映画デビューと初主演映画について、見ていきましょう。

 

「野生の証明」オーディション合格

実は、本人がオーディションに応募したのではありません。

誰かが内緒で、彼女の代わに、応募していたのです。

そのため、薬師丸ひろ子さんは、演技をした経験もないので、落ちるつもりでオーディションに参加したと言います。

オーディションでは、「ピンク・レディを歌って」と言われましたが、薬師丸ひろ子さんは、「嫌だ」と断ったそうです。

角川春樹さんは、その気の強さも気に入ったようでした。

「野生の証明」の原作では、長井親子の設定は、10歳の小学生でした。

しかし、薬師丸ひろ子は、当時13歳で中学生。身長の設定よりも高い。

さらに演技経験もなし。

そんな条件なのに、その設定を変更してまで、角川春樹さんは、薬師丸ひろ子さんを起用したかったのです。

オーディションという形式をとりながらも、角川春樹さんは、自分の直感を信じ、最終的に薬師丸ひろ子さんに決定させました。

角川春樹さんが、決め手になったのは「印象的な目だった」とも言います。

そして、1978年に公開された「野生の証明」は、角川映画としても初めて邦画年間興行ランキングで1位を獲得するヒット作となりました。

この映画出演をきっかけに、薬師丸ひろ子は、一気にスターダムに駆け上がります。

 

薬師丸ひろ子主演映画

1980年公開「翔んだカップル」

1981年公開「ねらわれた学園」

1981年公開「セーラー服と機関銃」

と、続きます。

「翔んだカップル」が薬師丸ひろ子さんの初主演映画になります。

当初、薬師丸ひろ子さんは、この映画の出演を拒んでいましたが、高倉健さんのアドバイスにより、最終的に出演を了承します。

1979年に、薬師丸ひろ子さんの映画出演交渉がありました。「翔んだカップル」の制作会社は、キティ・フィルムという会社であり、角川事務所とは別の会社でした。そのため、角川事務所は、薬師丸ひろ子さんを、「貸し出す」という形で、承諾しました。

薬師丸ひろ子さんが15歳の頃です。

中学校3年生で、受検勉強のため、女優業は休止していましたがこの作品には意欲を見せていました。

「翔んだカップル」で、薬師丸ひろ子さんは、第2階ヨコハマ映画祭主演女優賞と第4回日本アカデミー賞話題俳優部門を受賞します。

 

薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」が大ヒット

1981年12月公開の「セーラー服と機関銃」では、すでに薬師丸ひろ子さんは、17歳の高校生のときです。

薬師丸ひろ子さんの代表作の一つです。

彼女はこの映画で主人公を演じ、一見普通の女子高生でありながらもヤクザの世界に巻き込まれるという役柄を演じました。彼女の演技はその時代の若者たちに強い共感を呼び、大ヒットを記録しました。

 

当時の流行語になった「カイ・・・カン」

映画の中で、薬師丸ひろ子さんが、機関銃をぶっぱなしてから、セリフを言うシーンがあります。

そのセリフが「カイ・・・カン」です。

当時、この決め台詞はアドリブなんじゃないのか、という噂されていました。

しかし、薬師丸ひろ子さんは、「台本です!」ときっぱり断言しました。

 

ガラスの破片が当たり頬にケガをした

機関銃をぶっぱなすシーンでは、割れたビンが、薬師丸ひろ子さんの左頬に当たってしまい、少し出血があったそうです。

これは、撮影中に起こった事故になりますが、薬師丸ひろ子さんは、そのまま演技を続けます。そして、その演技が本編でも使われているとのことです。

左頬にも注目してください。本物の傷なんですね。

 

次は、「セーラー服と機関銃」の公開後に起こった出来事について紹介します。

機動隊と機関銃とは?

「セーラー服と機関銃」の公開日の2日目である、1981年12月20日の出来事です。

薬師丸ひろ子さんが17歳の高校2年生の頃です。

大阪・梅田東映などで舞台挨拶を予定していました。

ところが、ファンが映画館に殺到したために、機動隊が放水車を伴って出動するという騒ぎがありました。

3会場合わせて、なんと8000人が集まったのです。

そのため、予定していた舞台挨拶は中止となりました。

その出来事は、一般の新聞でも報道されるほど話題だったのです。

その中の、朝日新聞の1面に、「機動隊と機関銃」という見出しが載ったといいます。

 

薬師丸ひろ子さんは、映画大ヒットにもかかわらず、1981年12月25日に、ある発表をします。

それは「1982年は、大学受験のために仕事を控える」と約1年半の休業宣言をします。

 

歌手としても大ブレイク

「セーラー服と機関銃」では、薬師丸ひろ子さんが歌手としてのデビュー曲になります。

「セーラー服と機関銃」の映画と同じ、曲名で来生えつこ作詞、来生たかお作曲による楽曲です。

1981年に映画とともに発売となり、1982年のオリコンでは女性アイドルのシングル最高位を記録して、大ヒットとなりました。

 

角川事務所は第2の薬師丸ひろ子を発掘

1982年は、薬師丸ひろ子さんが、休業となった年です。高校3年生で、受験勉強に専念すると、前年のクリスマスの日に発表しました。

薬師丸ひろ子さんが、休業している間に、角川春樹事務所でも新たに動き出します。

それは、第2の薬師丸ひろ子さんを発掘するためのオーディションの開催でした。

 

角川・東映大型女優一般募集

1982年4月18日、第2の薬師丸ひろ子さんを発掘するために、一般募集によるオーディションが開催されました。

このオーディションで、グランプリになったのが、渡辺典子さんです。

そして、特別賞に原田知世さんが選ばれました。

のちに、薬師丸ひろ子さん、渡辺典子さん、原田知世さんは、「角川三人娘」と呼ばれるようになります。

 

薬師丸ひろ子復帰後、角川事務所から独立まで

1983年7月公開「探偵物語」

1983年12月公開「里見八犬伝」

1984年7月公開「メイン・テーマ」

1984年12月公開「Wの悲劇」

1985年3月角川春樹事務所から独立する

といった流れできています。それでは一つ一つ見ていきましょう。

 

薬師丸ひろ子「探偵物語」

1982年11月に「探偵物語」の制作発表が行われました。

その頃は、薬師丸ひろ子さんが、まだ受験勉強で休業中だったはず。

事務所としては、大学の合否に関係なく撮影すると発表しました。

おそらく、薬師丸ひろ子さんの受験は、推薦入学ではあったので、11月くらいであれば、試験そのものはすでに終わっていたのかもしれません。

でも、合否に関係なく撮影が行われるというのは、本人の意思が入る余地はあったのか疑問です。

角川春樹事務所としては、薬師丸ひろ子さんの人気は絶大なものがあったので、あまり長い期間、休業させているわけにもいかなかったのでしょう。

「探偵物語」の原作者は、赤川次郎さんです。この作品は、書き下ろす前から、主演:薬師丸ひろ子で、映画化が決定していたのです。

角川事務所としても絶対の自信があったのですね。

「探偵物語」の共演者は松田優作さんです。

当初は「アイドル映画に出るなんて」と嫌々ながらの出演だったとの話もあるようです。

しかし、1983年7月に「探偵物語」が公開されると、これまで、薬師丸ひろ子さんが出演した角川映画の中では、興行収入51億円と、最高額を記録します。

薬師丸ひろ子さんが大学1年生の19歳の頃でした。

 

探偵物語・歌もヒット

薬師丸ひろ子さんの2枚目のシングルとなる「探偵物語」が、1983年5月25日発売となります。

同映画の主題歌となり、予約枚数だけで50万枚以上ということで、これまたヒットを記録します。

 

薬師丸ひろ子「里見八犬伝」

1983年は、薬師丸ひろ子さんが復帰した年でもありますが、「探偵物語」が7月公開、さらに同年12月には「里見八犬伝」が公開されます。

この過酷なスケジュールによって、「里見八犬伝」の撮影中に過労と盲腸で入院してしまいます。

これによって、大学1年生のときに、留年が決定してしまいます。

 

 

薬師丸ひろ子「Wの悲劇」

1984年12月公開「Wの悲劇」。

この作品は、映画興行としても成功したと同時に、薬師丸ひろ子さんの演技が高く評価されました。

1984年は、薬師丸ひろ子さんが20歳です。留年しちゃいましたから、2回目の大学1年生のときになりますね。

「Wの悲劇」ではブルーリボン主演女優賞を受賞しています。

このとき、印象的なスピーチをしています。

「この映画で燃えつきたので、(女優)をやめようと思った。でも、この賞は、私にガンバレという励ましの意味でいただけたと思います」

このスピーチからも、どうやら女優さんはいつか辞めたかったとうかがえます。

 

Woman

「Woman "Wの悲劇"より」は、映画『Wの悲劇』の主題歌です。

この曲は、薬師丸ひろ子さんの4枚目のシングルとして1984年10月24日に発売。

映画主題歌としてリリースされる場合、通常は、曲名が映画のタイトルとなることが多いですが、この曲では初めて、それとは異なるタイトルが付けられました。

「Woman "Wの悲劇"より」は、リリース後すぐに注目を集め、オリコン週間ヒットチャートで薬師丸ひろ子さんにとって「探偵物語/すこしだけやさしく」(1983年)以来の1位を獲得しました。

また、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』でも最高位4位を記録しました。

累計37.3万枚のセールスを記録。

 

角川事務所から独立

薬師丸ひろ子さんは、映画のヒットは続いていましたが、内心はずっと女優さんを辞めたいと思っていました。

そんな気持ちが、ブルーリボン主演女優賞のスピ―チで現れてしまったのかもしれません。

女優を辞める決心がついたのは、二十歳のときに、ユーミンのコンサートに遊びにいったときだったそうです。

そのとき、何か、決定的に気持ちを整理する瞬間が訪れたのでしょうね。

そして、薬師丸ひろ子さんは、直接、角川社長に、引退する旨を打ち明けて、承諾をいただきました。

ただ、角川社長は、「でも、もったいないぞ、やりたくなったら、またいつでも始めろよ」と彼女に言い残します。

よほど、薬師丸ひろ子さんの才能にほれ込んでいたと考えらえます。

それが1985年の3月のことでした。

薬師丸ひろ子さん、21歳のときです。大学2年生目前のときですね。

 

薬師丸ひろ子個人事務所を設立

ところが、薬師丸ひろ子さんの引退宣言によって、大勢の報道陣が、個人宅に殺到するようになったといいます。

これに困った薬師丸ひろ子さんは、1985年3月、個人事務所「オフィス・メル」を設立しました。

本人は、本当に引退したくても、世間が許してくれなかったというのでしょう。

再び、女優の道を進もうと決心したのですね。

 

以上、薬師丸ひろ子さんの10代のデビューから21歳になる年の独立までの経過となります。

 

薬師丸ひろ子 映画出演一覧(10代)

ここでは、薬師丸ひろ子さんが、デビューしてから10代で出演した映画作品の一覧を紹介します。

1978年10月公開「野生の証明」

1980年7月公開「翔んだカップル」

1981年7月公開「ねらわれた学園」

1981年12月公開「セーラー服と機関銃」

1983年7月公開「探偵物語」

1983年12月公開「里見八犬伝」

1984年7月公開「メイン・テーマ」

1984年12月公開「Wの悲劇」(20歳の年)

 

薬師丸ひろ子の若い頃!10代でデビュー、セーラー服と機関銃、映画一覧を徹底解説の最後に

今回は、薬師丸ひろ子さんの若い頃について、紹介しました。

中学生で女優デビューし、角川映画の看板女優・そして歌手となった薬師丸ひろ子さん。

人気女優とは別に、内心はいつ女優を辞めようかと考えていたのかとうかがえます。

しかし、彼女の才能と魅力は、多くの人から必要とされ、独立後の現在でも数々の映画やドラマで主演を務めてています。

10代の頃の映画といえば「セーラー服と機関銃」は彼女の代表作の一つであり、その演技が多くのファンたちを熱狂させてきました。

薬師丸ひろ子さんの若い頃の伝説は今なお語り継がれ、今後も注目され続けることでしょう。

 

また、私の別のページでは、パーソンズのジルの若い頃についても解説していますので、合わせておよみください。

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