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菊池桃子の若い頃:10代デビューのきっかけ、結婚、離婚、再婚、現在まで解説

菊池桃子さんは、1980年代、アイドル全盛の時代を飾ってきた一人です。

菊池桃子さんの若い頃から、透明感のある可愛らしさや美しさが、多くのファンを魅了してきました。

本記事では、10代でデビューした菊池桃子さんが、芸能界に入るきっかけや、楽曲の歴史について解説します。また、プライべ―トでは、プロゴルファーの西川哲さんと結婚、離婚をして、2019年には再婚した経緯についても触れていきます。

菊池桃子さんは、現在も彼女の魅力は色褪せることなく、多くの人々から愛され続けています。

ここでは、菊池桃子さんの若い頃の魅力と、彼女が歩んできた道のりについて、一緒に共感していきましょう。

 

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菊池桃子の若い頃

  • 名前:菊池桃子(本名同じ)
  • 生年月日:1968年5月4日生
  • 出身地:東京都品川区
  • 身長:161㎝
  • 血液型:B型
  • 職業:女優、タレント

菊池桃子さんの若い頃は、どうだったのでしょうか?ここでは、デビューのきっかけや、芸能界に入って最初の仕事やデビュー曲について解説します。

 

デビューのきっかけ

菊池桃子さんが、芸能界に入るきっかけとなったのは、偶然の産物といっていいのかもしれません。

菊池桃子さんの芸能界に対する興味は「見てみてたいと思った」という程度の好奇心から生まれたものでした。

誰か特定の芸能人に憧れて、この世界に入りたいと思ったわけではなかったのです。

デビューのきっかけは、1982年で、菊池桃子さんが、当時、中学2年生のときでした。

叔母が、東京・青山一丁目で飲食店を経営していました。

その叔母の誕生日に、家族で撮影した記念写真を撮ったことがありました。

その写真をお店に飾っていたところ、偶然、そのお店にやってきた音楽関係者の方が、その写真に写っている菊池桃子さんに、目が留まりました。

それがきっかけでスカウトされることになりました。

これに対して、父親の反応はというと、菊池桃子さんが、ちゃんと学校に行けることと、学業に支障がないことを条件に、彼女の希望を尊重して、スカウトを許可することとなりました。

 

芸能界デビューとなる最初の仕事は?

菊池桃子さんは、1982年にスカウトされて芸能界に足を踏み入れました。

菊池桃子さんの、芸能界デビューとなる最初の仕事は、1983年になってからです。

15歳の菊池桃子さんは、ラジオ番組「学園バラエティ パンツの穴」に生徒役として出演し、その魅力を全国のリスナーに伝えることから芸能活動をスタートしました。

同じ1983年の11月には、学研のアイドル雑誌「Momoco」のイメージガールに選ばれ、創刊号の表紙を飾ることとなります。

この活動を通じて、彼女の人気は一層高まりました。

さらに続く1984年、彼女は映画「パンツの穴」でヒロインを務め、女優としての注目を集めました。

このように、菊池桃子さんは、ラジオ、雑誌、映画というように、芸能入りの初期段階から、駆け上がるようにアイドルの道へ進んでいきます。

 

 デビュー曲は?

菊池桃子さんは、1984年に、アイドル歌手としてもデビューを果たします。

彼女が、初めて歌った楽曲は「青春のいじわる」というタイトルです。

これが彼女の音楽の道の第一歩となりました。

菊池桃子さんのキャッチフレーズは「It's Real Fresh 1000%」です。

これは彼女のフレッシュで元気なイメージを表していたのでしょう。

そしてその魅力は、瞬く間にファンの間で広まりました。

同じ1984年にリリースされた2ndシングル「SUMMER EYES」は、秋元康が作詞を手掛け、これが大きな注目を浴びるきっかけとなりました。

この曲で菊池桃子さんは、第26回日本レコード大賞新人賞を受賞し、その才能が音楽業界からも認められることとなりました。

さらに、彼女のブロマイドの年間売上が1位になるほど、菊池桃子の人気は絶大なものとなります。

 

主な楽曲

菊池桃子は、1980年代に日本の清純派アイドルとして大人気を博しました。

ここでは。、菊池桃子さんが、10代の頃に発売していた主な楽曲を紹介します。

画像を見ていくと、10代でも後半になると、大人っぽさが加わってくるのがお分かりかと思います。

 

「雪にかいたLOVE LETTER」

1984年に3枚目のシングル、「雪にかいたLOVE LETTER」を合わせて、1984年にリリースされた3つのシングルと、その年の初アルバム『OCEAN SIDE』がヒットチャート1位に輝いたことでスタートしました。

これによって、菊池桃子さんは、”ポスト聖子”とも呼ばれるようになりました。菊池桃子さんが、まだ16歳のころです。

 

1985年シングル「卒業-GRADUATION-」

菊池桃子さんが17歳の頃です。

彼女はまた、シングル「卒業-GRADUATION-」オリコンチャートの1位を獲得しました。

 

1986年シングル「夏色片想い」

オリコンチャートの1位を獲得しました。

1986年にはエランドール賞新人賞を受賞し、シングル「夏色片想い」の発売キャンペーンとして行った全国25万人握手会は、27万人を動員します。

菊池桃子さん18歳の頃です。

 

1987年シングル「アイドルを探せ」

1987年には、映画『アイドルを探せ』で主演を務め、同名の主題歌をリリースしました。これが彼女自身最後のオリコンシングルランキング1位となる曲となります。

オリコンチャートの1位を獲得です。

菊池桃子さん19歳の頃です。

 

1988年ロックバンド「ラ・ムー」(RAMU)を結成

1988年には、菊池桃子さん自らがメインボーカルを務めるロックバンド「ラ・ムー」を結成。

1988年は、菊池桃子さんが、20歳の頃になります。

20歳になり、アイドルからバンド結成に、方向転換しました。

事務所としては、これまでの、アイドル路線からの脱却を試みたのと考えられます。

RAMUでは、ライブも行いましたが、セールス的には、大きな成功は得られなかったと言われています。

 

菊池桃子の結婚、離婚、再婚

次は、菊池桃子さんのプライベートを解説します。

菊池桃子さんは、結婚、離婚、再婚を経験しています。

1995年に結婚した最初の旦那は、プロゴルファーの西川哲さんでした。その後、離婚をしています。

2019年には、再婚をしています。

そのあたりの経過を見ていきましょう。

 

最初の旦那

菊池桃子さんの最初の旦那は、プロゴルファーの西川哲でした。

お二人の結婚は、なかなかスムーズにはいきませんでした。

菊池桃子さんと西川哲さんは、1993年、フジサンケイクラシックのプロアマ戦で一緒にラウンドを回る機会があり、その出会いが二人の交際のきっかけとなりました。

翌年の1994年には婚約を発表し、一見すると幸せな結婚生活が待っているかのように見えました。

しかし、その結婚に対して西川さんの「父」から、結婚を無期延期するという難題が提出されました。

西川さんのゴルフの成績が思わしくないことが主な理由でした。

この事態に対して菊池さんは、西川の父に結婚延期を撤回して欲しいと懇願しましたが、受け入れてもらえませんでした。

その結果、菊池さんはストレスから十二指腸潰瘍を患い、吐血するほどの重い病気に陥ったとのことです。

この事態を受けて、西川の父は二人の結婚を認め、西川さん自身もゴルフの成績向上に励むこととなりました。

1995年7月、西川さんは「日経カップ 中村寅吉メモリアル」で優勝を果たし、その結果、結婚の条件がクリアとなりました。

1995年5月1日、菊池さんと西川さんは結婚しました。

菊池桃子さんが27歳になる3日前でした。

 

翌年の1996年2月6日には、高輪プリンスホテルで挙式を行いました。

その後、二人の間には1996年8月に長男、2001年10月に長女が誕生しました。

 

離婚とその原因

菊池桃子さんは、1995年にプロゴルファーの西川哲さんと結婚しましたが、2012年に離婚しました。

菊池桃l子さんは、離婚の理由は公表していません。

しかし、この離婚の理由については様々な噂が飛び交いました。

一部の報道では、西川さんのゴルフトーナメントでの成績が振るわず、収入が激減したことが原因とされました。2005年以降、西川さんはゴルフトーナメントの予選すら突破できなくなり、その結果、収入が大幅に減少したとされています。

しかし、西川さんの収入減少だけが離婚の原因ではなかったようです。

西川さんは女性問題や多額の借金を抱えており、これが離婚の一因とされています。

西川さんは都内の飲食店に勤務する女性やプロゴルファーの女性との不倫の噂があり、また、競走馬ファンド販売会社の経営も悪化し、多額の借金を抱えるようになりました。

菊池さんは西川さんを支えるために相当な額を援助していましたが、借金は増え続け、債権者が菊池さんの家を差し押さえようとしたとき、菊池さんは離婚を決意しました。

以上、噂話を紹介しました。

 

菊池桃子さんの再婚について

菊池桃子さんは、2019年に、当時の経済産業省経済産業政策局長の新原浩朗氏と再婚しました。

当時、菊池桃子さんが51歳、新原浩朗(にいはらひろあき)さんが60歳のときでした。

新原さんは、東大卒のエリート官僚です。

 

 再婚の経緯

菊池桃子さんと新原浩朗氏の出会いは、2015年の「一億総活躍国民会議」がきっかけでした。

菊池桃子さんはこの会議に民間議員として参加しており、新原氏は、当時、会議を運営する「一億総活躍推進室」の次長を務めていたのです。

初めて会った瞬間に直感的な引力はなかったようですが、長い時間を共に過ごす中で、互いに話が合うことを感じ、友人のようにお話しできるようになりました。

仕事の話から、プライベートな話にも、自然と移るようになったのです。

お互い、独身同士だったので、二人で、食事に行くようになりました。

菊池桃子さは、既婚者と二人で食事に行くつもりはなかったのですが、新原氏が独身だったので、そのような心配がなかったと言います。

元アイドルと食事をできただけでも、超絶うらやましいですよね。

 

2人が友人としての良好な関係を築いていく中で、

ある時、「あれ?この人と一緒にいると人生が豊かになりそうだな」と思うタイミングがお互いにほぼ同じだったようです。

そして、新原氏が公務員であることは、菊池桃子にとっても安心感を与えました。新原氏の責任感を持った堅実な職業に対する好感も、この関係が深まる要因となったと述べています。

こうして、お互いが人生のパートナーとして適切だと感じ、2019年11月に結婚に至りました。

また、再婚に至るまでに、菊池桃子さんの子供たちからも後押しがあったとのこですね。

新原さん、ずっと独身でいて、60歳で元アイドルと結婚するなんて、こんな人生が待っていたなんて想像すらできなかったことと思います。

 

 

菊池桃子の現在

菊池桃子さんは、1968年5月4日生まれで、2023年時点で55歳です。

職業は歌手、女優、そして大学の客員教授でもあります。

現在でも、美しさを保っている菊池桃子さんが、普段気にしていることなどを紹介します。

 

現在の菊池桃子さん

若い頃から、人前に出るお仕事をされ続けていますので、やはり見た目はとても大切です。

菊池桃子さんの美しさは衰えることなく、若い頃と変わらぬ魅力とオーラを放っていると言っても良いでしょう。

いくつになっても、変わらない透明感を保ち、まさに彼女の若い頃を彷彿とさせ、多くの人々を魅了しています​。

 

 50代でも続く美の秘訣

菊池桃子さんは、アイドル時代からずっと可愛くて現在も非常に美しい女性として知られています。

仕事柄、美容にも気を遣いますし、若いころからメイクをし続けているので、肌の調子にも、一般人とは比べ物にならないほど、真剣に取り組んできたことと察します。

菊池桃子さんは、十代の早い時期から芸能活動をはじめ、長時間のメイクを必要とする生活を送ってきました。

その中で肌の健康を保つための方法を見つけ出してきたのです​​。

彼女が美しさを保つために特に重要視しているのが「睡眠」と「洗顔」です。

充分な睡眠時間を確保することで、肌細胞の修復や再生が促進され、肌の健康が保たれます。

また、洗顔を適切に行うことで、毛穴の汚れやメイクの残りをしっかりと取り除き、肌のトラブルを予防してると言います。

菊池桃子さんの美しさを保つ秘訣は、基本的な、日々の生活習慣の重要性を、改めて教えてくれますね。

菊池桃子の若い頃:10代デビューのきっかけ、結婚、離婚、再婚、現在まで解説の最後に

今回は、菊池桃子さんについて紹介しました。

菊池桃子さんは、10代で芸能界に足を踏み入れて、アイドルとして、全国のファンに青春の輝きを放ってきました。

菊池桃子さんの楽曲は、その移り変わりを象徴するものです。

そして、彼女のかわいらしさや美しさ、人間性でも、多くの人々の関心や注目を集めてきました。

歌手、女優、そして、大学の客員教授などを経験し、プライベートでは、結婚と離婚、再婚も経験し、再び家庭での安らぎや愛も見つけました。

人生のさまざまな局面を経験し、50代になっても、その美しさと強さを保ち続けています。

その秘訣は、適度な運動と健康的な生活習慣にあると言われています。

菊池桃子は、その美しさと人間性で、多くの人々に影響を与え続けています。

これからも、彼女の活動に注目していきましょう。

 

また、私の別のページでは、薬師丸ひろ子さんの若い頃についても解説していますので、合わせてお読みください。

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