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銀座 田村順子の若い頃:結婚や旦那(夫)、クラブ順子の現在を徹底解説

銀座 田村順子の若い頃:クラブ「順子」、美人受付嬢、結婚、旦那や現在を徹底解説

今回は、銀座の田村順子ママの若い頃として、若くして"銀座最年少ママ"としてスポットライトを浴び、厳しい業界で自身の道を切り開いてきた田村順子ママの、美人受付嬢のこと、結婚、旦那や現在など、彼女の人生について解説します。

銀座と言えば、数々の名店や伝説的な人物が思い浮かぶ場所。その中でも一際輝きを放つ存在が、クラブ「順子」のママ、田村順子さんです。

1966年に開店したクラブ「順子」は、政財界や芸能・スポーツ界の大物が集うサロンとして半世紀以上にわたり人々を魅了し続けてきました。

本記事を読み進めることによって、その後の、クラブ「順子」についても知ることができます。

 

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銀座 田村順子の若い頃は、美人受付嬢

田村順子さんの人生の始まりは、22歳のときです。

日本楽器(現・ヤマハ)銀座支店の受付嬢を経てモデルの仕事をしていました。

この田村順子を山口洋子さんが一目で気に入ったと言います。

そして、即日、山口洋子ママが経営するクラブ「姫」にスカウトしました。

山口洋子ママの見立ての通り、田村順子さんは、たちまち「姫」のナンバー1となり、夜の銀座にその名を轟かせるようになりました。

 

若い頃、日本楽器では、解雇された?

田村順子さんが日本楽器銀座支店で、美人受付嬢だったときに、解雇されたそうです。

その理由が、なんともユニーク。

若い頃の田村順子さんには数多くの激モテ伝説があるのですが、その一つがこの解雇宣告です。

本当なのか?と思ってしまいます。

田村順子さんは、まだ「姫」のホステスになる前、日本楽器(ニチガク)銀座支店の受付をしていました。

ある日、会社の幹部に呼び出され「解雇」通知されます。

その理由が、ニチガクの受付嬢に可愛い子がいるということが、銀座中で噂になります。そのため、会社には連日、男性たちからデートのお誘いが、ひっきりなしに入るようになったそうです。

そのため、電話の交換台の担当者が、会社の上層部に通告していたのが原因だたったとのこと。

これは、当時の交換台にいた人の嫉妬も入っていたんじゃないかと推察してしまいますが、確かに伝説のモテ話ですね。

 

クラブ「姫」時代

銀座のクラブ「姫」に入店した若い頃の田村順子は、すぐにその才能を認められました。

田村順子さんの仕事への誠実さと熱心さは、無遅刻、無欠席という驚異的な記録を作り上げ、六カ月連続で同伴出勤という当時の「記録」を打ち立てました。

彼女の給料もその努力の証でした。

田村順子さんの入店時の日給は2800円でしたが、働き始めてから二年後には1万2000円にまで上昇しました。

それは、当時の大卒の公務員初任給が月給2万円だったことを考えると、驚くべき額ですね。

彼女はニチガク(日本楽器)の受付嬢として働いていた頃の月給は、8000円でした。

銀座でも評判の女性が揃っていたとされる山口洋子ママのクラブ「姫」で、田村順子さんは、まだ若々しさが残る中にも、男を虜にする魔性の魅力を放っていることから、多くのファンを得ました。

昭和の銀座を知る人々は、1960年代の前半から既に「ジュンコ」の名が有名だったと語ります。

それは彼女がその場所で繰り広げた、まさに伝説的な活躍の証と言えるでしょう。

 

山口洋子とは

山口洋子さんは、19歳でクラブ「姫」を開業し、その後、作家として直木賞を受賞した多才な女性でした。

彼女の作品は女心の深奥を描き出し、その源流には銀座ママ時代の経験が色濃く反映されています。

クラブ「姫」は銀座の中でも一際輝きを放ち、最高の女性が揃うと評判でした​。

山口さんは1937年に愛知県名古屋市で生まれ、16歳で高校を中退後、喫茶店を開業。その後、クラブ「姫」を開業しました。

彼女は2014年に逝去するまで、その著作とクラブ経営の才能で業界で評価される存在でした​​。

驚くべきことに、山口さんはママとして働きながら作詞を始めました。

彼女の才能は1971年に五木ひろしの「よこはま・たそがれ」が大ヒットしたことで広く認知されました。体言止めを多用した彼女の独特の歌詞スタイルが評判を呼び、五木ひろしとのコンビで「夜空」「千曲川」などのヒット曲を手掛けました。

 

さらに、石原裕次郎の「ブランデーグラス」も彼女が作詞した作品です​。

 

田村順子が山口洋子に対する思い

田村順子ママと山口洋子ママの絆は、700通以上もの手紙という形で証明されています。

失恋、新居の購入、結婚の考えといった人生の節目節目で、順子ママが最初に相談したのは洋子ママだったのです。

順子ママは、自身の仕事を天職と感じていますが、それは幸運により自分が最もやりたい仕事を選んだからではなく、自分にはそれしかないという事実を受け入れたからです。

洋子ママの多彩な才能に比べ、順子ママにできる仕事は「クラブママ」だけでした。

それを理解し、導き、生かしてくれたのが洋子ママでした。

順子ママは、自分にとって唯一の仕事と引き合わせてくれた洋子ママに、今も深い感謝の念を抱いています。

この感謝は、信頼と尊敬の念を込めた、二人のママの深い絆を描き出しています。

 

ビートルズ初来日と「夜の接待要員」

田村順子さんが「姫」の人気ホステスだった時代、1966年には世界的に人気を博していたビートルズが初来日しました。

その時、「姫」の常連客の中にビートルズの来日を手がけた興行関係者がいました。

その興行関係者はビートルズが来日した際、夜の接待をする女の子を選定していたのです​。

しかし、「姫」のママ、山口洋子さんは、「どんな条件でもそれはダメです。順子ちゃんだけは私が認めません」と言い、田村順子さんを夜の接待から守りました。

そのことは後から田村順子さん自身が聞いた話で、彼女は「洋子ママは、まだ若くて世の中のことを知らなかった私を、知らないところで守ってくれたのだった」と感謝の意を述べています。

田村順子さんは、ビートルズの接待要員としてはいきませんでしたが、結果として、このお話も伝説とし残ることとなりました。

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田村順子の年齢は?

田村順子さんは、1966年の24歳のときに、クラブ「順子」を開店しています。

2023年現在だと、81歳になると考えらます。

 

銀座 田村順子の現在:クラブ「順子」の開店と閉店

1966年、銀座の数奇屋通りにあるビルの地下1階、13坪の空間に「クラブ順子」が誕生しました。

当時24歳の田村順子ママは、“銀座最年少ママ”として話題を呼びました。

このクラブは、政財界や芸能・スポーツ界の大物が集まるサロンとして、半世紀の歴史を刻んできました。

「クラブ順子」は日本の高度経済成長時代から存在し、田村順子ママは誰もが認める銀座のレジェンドとなりました。

政治家、経営者、文豪、芸能人、スポーツ選手など各界の超大物が毎晩のように訪れ、安倍首相のほか、小泉純一郎氏や森良朗氏なども来店していました。

順子ママが自立して自分のお店を始める際には、山口洋子ママが常連客に対して「順子ちゃんのお店、行ってあげてね」と宣伝してくれました。

その後、開店した「クラブ順子」はたちまち銀座で1、2を争う人気店となります。

1974年に俳優・和田浩治と結婚した順子ママは、芸能人並みの知名度を誇るようになりました。

特に彼女は1975年「長者番付」(高額納税者ランキング)の銀座ママ部門で3位にランクインするなど、その名を広く知られるようになりました。

銀座の伝説的ママ、田村順子は、50年にわたり「クラブ順子」のママとして銀座の夜を支えてきました。

彼女の店は、戦後裏面史の舞台であり続け、多くの逸話を生み出しました。しかし、コロナ禍の2020年に、田村順子は「クラブ順子」を閉店しました。

現在は「クラブ順子」を閉店したものの、田村順子はまだ銀座の夜に名を残しています。

田村順子さんの話題性と銀座での影響力は、今もなお続いているのです。

田村順子さんは、2023年で81歳になります。

 

クラブ「順子」の跡地には

クラブ「順子」があった東京都中央区銀座6丁目3−5の跡地には、「 BAR 銀座グレンカサーノ」というお店が入っています。

 

銀座 田村順子の旦那(夫)

田村順子さんの旦那は、俳優の和田浩治さんでした。

  • 愛称:ヒデ坊
  • 本名:和田愷夫(わだ ひでお)
  • 生年月日:1944年1月28日
  • 死没:1986年7月6日
  • 身長:173cm ※デビュー当時
  • 出身地:茨城県水戸市
  • 最終学歴:東洋音楽学校声楽科(現在の東京音楽大学)
  • 最終所属事務所:ホリプロ

ここでは、田村順子さんと和田浩治さんとの結婚について、触れていきます。

 

結婚

田村順子さんの夫は俳優の和田浩治でした。

和田浩治さんは、歌手で女優の梓みちよさんと1971年に結婚しますが、翌1972年に離婚しています。

その後、1974年に田村順子さんと再婚しました。

田村順子さんは和田さんより3歳年上で、いわゆる"姐さん女房"でした。

和田さんは1986年7月6日に、胃がんのた、42年の生涯を田村順子さんに看取られて終えました​​。

 

銀座 田村順子の若い頃:クラブ「順子」ママ、美人受付嬢、旦那や現在を徹底解説の最後に

今回は、田村順子さんについて解説しました。

1966年に銀座でクラブ「順子」を開店した田村順子ママは、美人受付嬢から“銀座最年少ママ”として名を馳せ、半世紀以上の歴史を刻んだクラブを経営し続けました。

政財界や芸能・スポーツ界の大物が集う場となり、自身もその名を広く知られるようになりました。

その成功は、山口洋子ママとの深い絆と、自身がクラブママという職業を深く理解し、それを愛した結果でした。

現在も順子ママの影響力は衰えず、彼女の人生とクラブ「順子」の歴史は銀座の象徴と言えるでしょう。

また、私の別のページでは、パーソンズのジルについても解説していますので、合わせてお読みください。

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