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卑弥呼の墓が見つかった?吉野ケ里遺跡で石棺墓が発見【邪馬台国】の経過と今後

卑弥呼の墓が見つかった?吉野ケ里遺跡で石棺墓が発見【邪馬台国】の経過と今後

 

歴史の舞台、佐賀県吉野ケ里遺跡から驚きの発見がありました。

これまで見つかっていた石棺墓は弥生時代中期のものが中心でしたが、今回新たに発見された石棺墓は弥生時代後期のものと考えられています。これは、歴史的な新発見と言えるでしょう。

なぜなら、その時期は卑弥呼が統治していたとされる邪馬台国の時代と重なりますから、これからの調査が歴史的大発見へとつながる可能性があるのです。

吉野ケ里遺跡はどのような場所で、どのような役割を果たしていたのか。そして、今回の発見が歴史にどのような影響を与える可能性があるのか。この記事では、これらの疑問を解明しながら、遺跡や古代の知識がない方でも興味深く読めるように、最新の発掘情報を分かりやすくご紹介します。過去の謎に迫る旅、一緒に出発しましょう。

 

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吉野ケ里遺跡とは

佐賀県吉野ケ里遺跡

佐賀県吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)とは何でしょうか。

吉野ケ里遺跡は、九州の佐賀県にある、とても大きな古代のマチの跡です。東京ドーム25個分ぐらいの大きさがあります。なんと、それは117ヘクタールの大きさです。

このマチは、周り全体が深い溝(これを「環濠(かんごう)」といいます)で囲まれていました。

吉野ケ里遺跡の環濠

吉野ケ里遺跡の環濠(かんごう)

この溝は、敵からマチを守るために掘られたものです。弥生時代(大体紀元前300年から紀元後300年ごろまで)の中期には、この溝が2つあって、その大きさだけでも東京ドーム8個分ぐらいありました。当時としては、とても大きなマチ(国家)だったのです。

 

このマチ(国家)には、敵から守るためのさまざまな工夫が見つかっています。例えば、柵や土塁(土で作った壁)、逆茂木(さかもぎ、敵が越えにくいように斜めに立てた木の柵)、

吉野ケ里遺跡の集落防衛のための柵と逆茂木

集落防衛のための柵と逆茂木

 

物見やぐら(敵を見つけるための高い見張り台)などがありました。

吉野ケ里遺跡の物見櫓と喜作

物見やぐらと木柵

 

また、敵がマチを取り囲んでも大丈夫なように、高い場所に倉庫も作っていました。これらから見ると、このマチ(国家)にはたくさんの人が住んでいて、よく戦争をしていたと考えられます。

マチの中心には、重要な人たちが住んでいたと思われるエリア(これを「内郭(うちぐるわ)」、つまり内側の囲いと言います)がありました。そして、「祭祀」と言って神様へのお祭りを行ったと考えられている特別な建物も見つかっています。つまり、このマチはただの戦争の要塞だけではなく、宗教的に神様を大切にする場所でもあったんですね。

さて、なぜ吉野ケ里遺跡がこんなに大きなマチになれたのでしょうか。

それは、吉野ケ里遺跡がある場所が、九州であまり見られない広い平地(平野)だったからです。平野だと、たくさんの作物を育てることができます。特に、水がたくさん必要なお米がたくさん育つのです。

さらに、このマチの近くには大きな川が流れています。

その川の名前は筑紫二郎とも呼ばれる、筑後川(ちくごがわ)で、日本でもとても大きな川の一つです。川が近くにあると、水がいつでも手に入ります。そのため、稲作が盛んになり、大きなマチ(国家)を維持するための食糧が手に入るようになりました。ただ、川の水が多すぎるとマチが水浸しになってしまうので、その河川の氾濫対策もきっと必要だったでしょう。

このように、吉野ケ里遺跡は古代の人々が工夫を凝らして生活していた大きなマチ(国家)の跡です。

 

吉野ケ里遺跡の出土品

吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡からは、たくさんのものが出てきました。たとえば、土で作られた器(土器)、金属で作られた剣(銅剣)、鏡(銅鏡)、鈴のようなもの(銅鐸・どうたく)などです。これらのものは、その時代の人々が使っていたものです。

それに、出てきたものの中には、日本だけでなく中国や朝鮮半島のものと似ているものもあります。これは、吉野ケ里遺跡の人々が、遠くの地からものを取り寄せていたとも考えられます。

さらに、特に珍しいものとして、金属で作られた特別な剣(有柄銅剣・ゆうへいどうけん)や、ガラスで作られたビーズ(ガラス製管玉・くだだま)も見つかっています。これらは、全国でもあまり見つからない貴重なもので、国から「重要文化財」に指定されています。

ガラス製のビーズが出てきたのは、この時代の人々がすでにガラス製品を作っていた証拠です。しかし、その頃の日本では、ガラス製品はまだ特別な人たちだけが使うものだったようです。その後、ガラス製品はしばらく作られなくなって、江戸時代まであまり見られませんでした。

これだけたくさんの特別なものが見つかったということは、吉野ケ里遺跡の人々がとても強く、権力があり、豊かな生活を送っていた証拠と考えられるのです。

 

卑弥呼の邪馬台国が吉野ケ里遺跡にあったのか?

まず、邪馬台国とは何かについて説明します。

邪馬台国は、昔、日本に存在した大きな国家の一つで、その国の女王とされる卑弥呼がいたことで知られています。

それでは、なぜ吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だったと考えられるのでしょうか。その理由は、大きく分けて以下の3つです。

1.大規模な集落

吉野ヶ里遺跡は、大きな土塁と堀(これを「環濠・かんごう」と言います)で囲まれた大規模な集落で、全国的に見てもその規模はトップクラスです。邪馬台国は、古代の中国の文献「魏志倭人伝」に「七万余戸」の家があったと書かれているほど大きな国家であったとされています。そのため、その規模を持つ吉野ヶ里遺跡が邪馬台国である可能性が考えられます。

 

2.防御施設の存在

邪馬台国が存在した時代は、戦争が頻発していたと考えられています。吉野ヶ里遺跡には、そういった戦争に備えるための防御施設が存在していました。それに対して、奈良県の纏向遺跡(まきむくえいせき)という、邪馬台国の候補地とされる場所には、防御施設がほとんど見つかっていないのです。

 

3.海が近い

邪馬台国の時代は、気候が今よりも温暖で海水面が高かったとされています。そのため、吉野ヶ里遺跡の近くには海岸線があったと考えられています。海は交易や移動に重要で、大きな国を支えるためには海が近いことが有利でした。

 

しかし、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だったとする説にも疑問点があります。それは、その時代が合わないということです。具体的には、吉野ヶ里遺跡の全盛期は、邪馬台国が存在したとされる時代よりも前で、邪馬台国が存在したとされる時代にはすでに衰退していたと考えられています。さらに、遺跡から発掘された有力者の墓が邪馬台国の時代には見つからないという事実も、吉野ケ里遺跡が邪馬台国ではない可能性もありました。

これらは全て考えられることで、まだはっきりとしたことはわかっていない、といった状況でした。

 

卑弥呼の墓が見つかった?吉野ケ里遺跡から石棺墓が発見

卑弥呼の象

卑弥呼の象

2022年2月に、吉野ヶ里遺跡の中にあった神社が移転しました。その神社の場所は、元々は小さな丘(ここでは「丘」は高くなっている土地のことを指します)で、中世以降、城や神社が建てられていました。そのため、ここにはまだ調査されていない古い物が埋まっている可能性があると考えられ、発掘調査が開始されました。

そして、調査をしてみると、なんと、その丘の上には大きな石の箱(これを「石棺墓(せっかんぼ)」と言います)が埋まっていました。この石棺墓は、弥生時代後期(約1700年前から1900年前)のものと考えられています。そして、この大きな石の墓の中に人が埋められていたことから、これは有力者(この場合、昔の社会で重要な役割を果たした人)の墓ではないかと考えられました。

卑弥呼(ひみこ)の墓だったのではないか、という可能性でてきました。

 

佐賀県知事も記者会見で興奮

2023年5月29日に佐賀県知事が記者会見を行い、「大発見」だと発表したことで、多くの人々が興奮しました。

そして、次のステップは、石棺墓の中に、骨や副葬品(ここでは、墓に一緒に埋められた物のことを指します)がないかを調査することでした。これは、2023年6月5日から始まりました。

もし、石棺墓から金印(ここでは、邪馬台国の印のことを指します)などの証拠が見つかった場合、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であったことがほぼ確定すると考えられていました。つまり、この調査は、邪馬台国が実際にはどこにあったのかという古代の謎を解明する可能性がある、とても重要なものだったのです。

 

佐賀県知事が、石棺墓の調査結果を報告

6月14日、佐賀県知事が記者会見を開き、石棺墓(せっかんぼ)の調査結果を発表しました。石棺墓は、たくさんの土が詰まっていましたが、掘り下げていくと底部で面白い発見がありました。

まず、石棺墓の底には赤い絵の具(赤色顔料)が見つかりました。それは、石の箱の内側全体が赤く塗られていたことを示しています。この赤い絵の具は、昔の人々が重要な人物(身分の高い人)を示すために使っていたと言われています。さらに、石棺墓の蓋には✖のような印が彫られていました。

これらの発見と、石棺墓丘の景色の良い場所に一つだけ存在していたことを考えると、この石棺墓は邪馬台国(古代の日本の一部)の重要な人物(有力者)の墓だった可能性が高いと知事は説明しました。

しかしながら、調査の結果、骨や当時の人々が持っていた物(副葬品)は残っておらず、見つかりませんでした。これについて、知事は、骨や当時の人々が持っていた物(服や貝の腕輪などの有機物質)は、長い時間の間に土と一緒に分解されてしまったと考えられると述べました。

一方で、もし刀や青銅器(金属製の道具)などが埋められていたとしたら、これらは分解されることなく残っているはずです。しかし、これらも見つからなかったので、元々石棺墓には副葬品が入っていなかったと判断されます。

今回の調査で何か手がかりになるものが見つかれば、この石棺墓が誰のものだったか、その人の社会的地位やその時代がより確定できたかと思うと、少し残念に思います。

しかし、今回の発見と調査は、私たちに古代の魅力(古代ロマン)を感じさせ、吉野ケ里遺跡の価値を再認識させてくれました。

今後の計画については、土の分析、石の鑑定、赤い絵の具の分析を行っていく予定です。

さらに、謎のエリアの60%はすでに調査が終わっていますが、残りの40%はまだ調査が必要です。この年度中に、残りのエリアも調査する計画です。また、6月24日と25日には、一般の人々もこの石棺墓を見ることができるように調整を進めています。

【吉野ケ里遺跡謎の発掘エリア】

住所:佐賀県神埼郡吉野ケ里町田手842-0035

 

最後に

今回は、弥生時代後期の石棺墓が発見された佐賀県吉野ケ里遺跡の経過について紹介しました。

この発見は、新たな歴史的発見の兆しを我々に示しています。この遺跡からの発掘品が、邪馬台国の有力者のものである可能性を示していることは、歴史的な発見への大きな一歩と言えます。

しかしながら、現時点では石棺墓の持ち主の正確な特定や、その社会的地位の確定は難しい状況です。

遺跡の土壌や石材、赤色顔料の詳細な分析が必要となります。そして、遺跡の全体像を理解するためには、まだ調査が未完了のエリアの探索も重要です。古代のロマンを追い求め、これからも吉野ケ里遺跡の調査は続きます。新たな発見が、我々の理解を深め、歴史の一部を明らかにすることでしょう。

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